ピラミデ-カイウス・ケスティウスの墓

ローマの街に突然現れるピラミッドは紀元前12世紀のお墓です。なぜローマでこのようなお墓ができたかというのはいまだはっきりとした説はありませんが、当時、エジプトがローマ帝国の属国になったことから受けたインスピレーションかもしれないという説があります。

カイウス・ケスティウスは当時の宗教行事を担う重要な役割をもった人物だったそうで、出身が裕福な家庭であったため、皇帝でもないのにこのような大技ができたのかもしれません。

底辺およそ30メートル、高さが36メートルにもなるこの大理石の墓碑は330日で完成したといいます。

ヴォールト天井の小さな空間にはニケやアンフォラ(壷)などが描かれています。

その後紀元3世紀には、ローマ防衛のための壁を短期間で築かなくてはならなかったために、ピラミッド自体が壁に取り込まれているような姿になりました。隣にはサン・パオロ門があります。この壁は当時の皇帝からアウレリアヌスの壁と呼ばれ、旅行者にとってはフィウミチーノ空港からタクシーの定額料金の基準となる壁でお馴染みです。

ピラミッドの壁のかつてのローマ内側は、現在は非カトリック教徒のための墓地となっており、そちらからゆっくりと眺めることができます。

面するオスティエンセ広場からはオスティエンセ街道が南に伸び、ローマ四大バジリカのひとつ、ローマの守護聖人の一人を奉った聖堂である、サン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ聖堂に行くことができます。

オスティエンセ街道沿いには、カピトリーニ博物館の分館や、大学、かつての大きな市場や工業地の跡があります。

古代ローマの時代はアッピア街道同様、街道沿いにはお墓が並んでいました。

現在もサン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ聖堂近くになると、残っているところがあります。

 

18世紀の建築家であり銅版画家のジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージも当時のピラミデを描いています。

18世紀はローマはかなり荒廃していたので、その雰囲気がよく現れた版画です。

 

『ローマの景観』:カイウス・ケスティウスのピラミッド(国立西洋美術館のページに行きます。)


■ ピラミデ(ピラミッド)-カイウス・ケスティウスのお墓

Piramide

Piazzale Ostiense

メトロ B線 Piramide(ピラミデ)駅

ローカル線 FR1線 Ostiense(オスティエンセ)駅

その他、バスも通ります。

※この記事の内容は掲載時のものであり、現在と異なる場合があります。

ローマをお散歩編集人

ローマをお散歩編集人です。 街歩きのヒントが見つかるかもしれません。

関連記事

外からでも金網越しによく見える::全容がわからないので想像を掻き立てる

セプティミウス・バッススのヴィッラ

ここに来たとき、ローマの街にある古代ローマ時代の遺跡の数の多さを改めて思った。 見渡す限り広がる草原に崩れかけた遺跡。管理所の手間を考えてのことであろう、 常に一般公開されているわけではなく、

続きを読む

モレッティの青年の家

蚤の市で知られるポルタ・ポルテーゼがある通りに、ルイジ・モレッティの「トラステヴェレの青年の家」と呼ばれるユースホステルであった建物がある。現在はそのホールは展示のための空間となっていて、建築にちなんだ企画展などが催されている。

続きを読む

ガリバルディ義勇軍兵士の納骨堂

”ローマのために戦った戦死者に”と彫られたモニュメントがジャニコロの丘の上に建っている。イタリア統一運動で最後までイタリア統一に抵抗したローマのために命を落とした戦士たちの墓碑である。1849年、ナポレオン3世が送ったイタリア統一運動の戦いに加わった中には、ニーノ・コスタやゴッフレード・マメリら、若い芸術家も含まれた。ニーノ・コスタは絵画の印象派にも影響を与えた画家のひとりであり、マメリはイタリアの国家の作詞者としても名が通っており、イタリアの国家はマメリの歌と呼ばれる。

続きを読む