ローマエリア別散歩ローマのあそこに行きたいのだけれど、近くに他になにかあるかしら、とエリアに分けてみました。随時更新中です。

地下鉄A線はオレンジで表示されるメトロです。
車両もB線と比較して新型で、落書きも少ないです。

車内では液晶画面で広告を流しています。
スリに注意の警告を促すアニメーションが流れていたり、犬猫の面白ビデオが放映されたりするので、
見入ってしまうと危険とわかっていても、 動物面白ビデオはついつい見てしまって噴出してしまうことも。
あまり見入ってスリに狙われないように注意しましょう。

A線はヴァチカン、ポポロ広場、スペイン階段、トレヴィの泉など、
ルネッサンスやバロックの観光名所に連れて行ってくれます。

また、テルミニ駅より南は、かつての教皇庁があったローマ四大バジリカの一つ、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂や、
さらに南にいくと広大なカステッリ・ロマーニを背景とした、古代ローマ水道橋公園や
アッピア街道につながるバスが出ている駅があります。

ローマの街の代名詞の一つである映画の街ローマとなった撮影所、チネチッタもA線の沿線です。

また、南の終点にははローマの南の小都市に日帰りで行くことができる近郊バスのターミナルがあります。

B線とは唯一、テルミニ駅で乗換えができます。


ATM市内に行く前に、ユーロを持ってきていなければ、空港かフィウミチーノ駅のキャッシュディスペンサーでいくらかおろしておくとよいかもしれません。  

街はエリアが変わればその歴史もそれぞれであり、街の表情も千差万別。

ローマの歴史的地区はリオーネ(Rione)に分けられており、各々のリオーネの紋章が表しているように

それぞれの歴史により異なった雰囲気を出している。

ここでは、大まかにリオーネをなぞりながら、便宜上エリア分けをしている。

歴史的地区の外、つまりアウレリアヌスの壁の外はローマ数字で行政上の区分けがなされているが、

ここでは、そのエリアの特徴ごとに大まかに分けている。

結果として、中心から伸びる古代の街道に沿っているようだ。

 
 
 

ローマの街

ローマの街にはテヴェレ川が流れており、古代ローマはその左岸に発展した。

古代ローマの中心地はとても狭いエリアで、今日ではローマの街として散歩しているエリアが、

古代ローマよりも古いお隣の都市国家であったりする。

行政の便宜で、4世紀に街の防衛手段として造られたアウレリアヌスの壁に囲まれたエリアを

大きな意味でのローマの中心街としている。

アウレリアヌスの壁の外ではあるが、ローマはヴァチカン市国を包み込んでいる街でもある。

地図上の左上で黄色いラインで囲まれているのがヴァチカン市国。

そぞろ歩きの楽しいエリア、トラステヴェレは“テヴェレ川の向こう”を意味している。

テヴェレ川の中州にはティヴェリーナ島があり、

古代から氾濫を繰り返してきたテヴェレ川は、かなり蛇行しているので

散歩をしていると、ふと気づくとおもわぬ方向に川が現れる感じがすることがある。

川の氾濫により堆積した土が古代ローマ時代の遺跡を覆っているため、

古代の遺跡は今日の道路面より下にある。

どこの街もそうであるが、それぞれの街区が独特の雰囲気を持っており、

この街ではどこそこのエリアが好き、というのがあると思う。

 

歴史の長いローマでは、今のエリアと古代のエリアを重ね合わせながら散策するというのも

なかなか面白い。

立て札はないけれど、突然現れる石やレンガの塊。

ガイドブックにはない、遺跡に出会う事もしばしば。

街中に突如現れる「ナンダ、コレ?」がその後、ローマの街をもっと知ろうという

きっかけになるかもしれない。

ローマでお気に入りのエリアが見つかりますように、楽しいお散歩を。

Buona passeggiata!

 

 

roma-mappa-generale

 

 

主な観光名所を地図に載せてみましたが、こんなものでは足りない。

オレンジ色の線が“アウレリアヌスの壁”。

すべてが残っているわけではなく、テヴェレ川に建っているわけでもないのだが、

遺跡をもとに、今日のローマ市が行政上の便宜として、

アウレリアヌスの壁としてオフィシャルに決めているラインである。

フィウミチーノ空港をタクシーで利用する際には料金上のメリットがあるので

旅行者も大まかにその存在を知っているとよい。

 

 

お散歩INDEX


ローマはここから始まった パラティーノ

コロッセオのみならず、多神教からキリスト教へ チェリオの丘とサン・ジョヴァンニ界隈

真実の口もいいけれど、緑豊かな閑静な丘、アヴェンティーノ

屋外美術館とよばれるエリア スペイン広場からポポロ広場

ローマが好きになったら、ここは訪れたい トレヴィの泉界隈

昼間も夜もそぞろ歩きが楽しい ナヴォナ広場とパンテオン界隈

美しいルネッサンスと職人が共存するエリア カンポ・ディ・フィオーリ界隈

なにかとお世話になります テルミニ駅界隈

美味しいものと小径の散策と トラステヴェレ界隈

ローマの台所そしてASローマ発祥の地 テスタッチョと近代化を支えてきたオスティエンセ界隈

古の娯楽施設 カラカッラ浴場からアッピア旧街道の起点へ

古に思いを馳せてみることができるかも アッピア旧街道

芸術の宝庫 ヴァチカン市国

チネチッタも古代ローマ水道橋もあります チネチッタ・トゥスコラーナ界隈

イタリア合理主義建築博物館 EUR

かつてはお隣の都市国家でした ピア門からノメンターノ界隈

20世紀・21世紀建築博物館 フラミニア界隈

ローマのもうひとつの陸の玄関口、ティブルティーナ界隈

 

 

 

 
 
 

ローマは映画の街でもあります。
ローマの南にはチネチッタと呼ばれる、イタリア語の映画、cinema(チネマ)と
街、città(チッタ)という言葉が合わさってできた街区があります。

ファシズム政権下、ムッソリーニには1937年に「映画都市」建設。
他にムッソリーニは「大学都市」などもつくっています。

イタリア映画をを代表するフェデリーコ・フェリーニの、「甘い生活」や「道」、
その他「ベン・ハー」、最近ではハリウッド映画の「ミッション」や「オーシャンズ12」なども
撮影されています。
イタリアの人気テレビ番組の収録もされています。

メトロA線のCinecittà(チネチッタ)駅の隣のSbaugusta(スバウグスタ)駅には
少数精鋭の映画専門学校や、Istituto Luceという、こちらは1924年に
同じくムッソリーニがつくった施設があります。
こちらは、ファシズムのプロパガンダのための映像制作のための施設です。
今日、ムッソリーニがでてくるアーカイヴ映像などをみると、
最後にIstituto Luceとテロップが出てきます。
戦後はドキュメンタリー映画などの制作をしてきましたが、建物自体は
現在は、ローマ市のこのエリアの住民のための市庁舎の出張所になっています。

メトロA線のCinecittà(チネチッタ)駅から、Giulio Agricola(ジュリオ・アグリーコラ)駅
までの地上のトゥスコラーナ通り沿いには、Via del Cinemaという、
映画の街の雰囲気を出すかのように、歩道にスターの名前が入っていたり、
フィルムを象ったベンチが置いてあったりします。
周辺は地元ローマっ子の住む庶民的なエリアです。

2005年からは毎年10月にローマ国際映画祭が開催されるようになりました。
メイン会場は、チネチッタではなく、ローマの北のParco della Musicaという
レンゾ・ピアノが設計した音楽複合ホール施設がレッドカーペットとなります。
カンヌやヴェネツィアの映画祭のような規模ではないものの、
巨匠フェリーににも愛された街ローマとして頑張って欲しいものです。

街の中には、映画の舞台になった場所に看板が立っています。
イタリア映画に並んで、ローマといえば思い出す人も多い「ローマの休日」の看板も立っています。
映画ファンはぜひお気に入りの映画の舞台を探してみて下さい。

ローマの街中では、撮影隊を見かけることが多いです。
フォトジェニックな街ですからね、ローマという街は。



 

 

 

ローマを散歩していると感じるのが、トレヴィの泉やナヴォナ広場のような大きな噴水ではなくても、
とにかくローマの街には噴水が多いこと。
美しい彫刻が施されたものから、ローマの遺跡を利用した噴水まで、
真夏は暑いローマを涼ませてくれています。
といっても、ここ数年のローマのの暑さはものすごく、噴水の水くらいでは治まらないのですが、
暑いからといって噴水で泳いだりすると捕まる可能性もありますのでご注意を。

ローマの街の美しい噴水たちはその多くがルネッサンスやバロックの時代に生まれていますが、
ローマの街の水が豊富であるのは古代ローマ時代まで遡ります。
ローマの皇帝たちは、北はブラッチャーノ湖や南はカステッリ・ロマーニから
水道橋をつくってローマの街に水を引いてきました。
その水道橋のローマの街の終点がトレヴィの泉やモーゼの泉に見られる装飾、モストラです。
ローマの街の水の豊富さは古代人の偉業の恩恵を受けているというわけです。
古代ローマ時代の水道が現在でも4キロほど生きています。

また、ローマの街中にはnazoni(ナゾーニ)と呼ばれる水飲み場がたくさんあります。

nasoninaso(ナーゾ)はイタリア語で鼻。それが大きいものを表す
拡大辞-oneがさらに複数形になってnasoni。
象の鼻のような形をしているからでしょうか。

普通に飲むことができます。
これは本当にローマという街が水に恵まれている証です。

水栓などありません。流し放しの状態です。


確かに最後にいつ開いたかわからない水栓つきの水飲み場より、
流れ放しの方が新鮮な感じがしますね。


かなり冷たいので知覚過敏の人は歯にキーンと沁みるかもしれません。
また、この蛇口のデザインもさまざまで、普通の蛇口のようなものから
ローマらしく、狼が口から水を出すものなどいろいろあります。

こちらのヴァリエーションもお楽しみください。


歴史的地区では美しい噴水の数々を、ローマの南では広大な水道橋公園を楽しむことができます。

お気に入りの噴水、蛇口を探してみて下さい。




 

イタリア共和国の首都となったローマは、1960年にはオリンピック開催都市となります。
1964年の東京オリンピックの前のオリンピックです。

ムッソリーニが遺したかつてのフォロ・ムッソリーニがフォロ・イタリコとして、
オリンピックのメイン競技場となります。
オリンピックに合わせ、フォロ・イタリコのテヴェレ川をはさんだ反対側のエリアに選手村がつくられ、
また、近代建築の代表作、ピエル・ルイージ・ネルヴィのパラッツォ・デッロ・スポルト(屋内体育館)が建設されます。
また、1942年に計画されたローマ万博のための都市計画、EUR(エウル)にも、
パラロットマティカという屋内体育館がつくられます。

1950年代からは、戦争ために工事が中止になっていたEUR(エウル)の建物の工事が再開され、
当初の用途とは異なる形で誕生します。
60年代にはローマは世界に誇る映画を生み出しています。
その中心がムッソリーニがつくった「映画都市」チネチッタです。

歴史からいえば負のイメージのムッソリーニですが、その本人が生み出したものを遺し、
こうして都市の再生にうまく利用していて、それすらを文化遺産としているのは数千年の文化の歴史のある場所と
石の建築文化があったからでしょうか。

2000年には21世紀という新しい時代への突入とジュビレオ(聖年)を迎え、ヴァチカン市国に隣接するローマは忙しい年を迎えました。

街の中心に2000年以上も昔の巨大な建造物を包み込む都市ローマがこれからどのように変遷していくのか、
楽しみでありつつ、一方で大きくは変わって欲しくない願望があります。

なによりも永遠の都であり続けることを願います。




街を歩いていると怒り心頭なことが度々、なんですけれど、ね。






戦況の悪化により、ムッソリーニが計画したローマ万国博覧会も中止となり、
現在もEUR(エウル)と呼ばれる地域には工事が取りやめになった建物が点在していました。

1943年7月19日にはサン・ロレンツォ地区などが空襲を受けます。
その後すぐにムッソリーニはノメンターノ地区にあるトルローニアの館にて逮捕されます。
ヴィットリオ・エマヌエーレ3世によって首相職を失墜させられました。
このトルローニアの館はローマの最後の王家のひとつトルローニア家のもので、
ムッソリーニのローマの居でした。
現在も美術館として彫刻の他、ムッソリーニの寝室も展示しています。
また、同館には当時の進駐軍が壁に描いた絵がそのまま残されています。

1943年8月14日にローマは無防備都市宣言をします。

同年9月、王と袂を分ったムッソリーニはローマを含むローマ以北のイタリアをイタリア社会共和国として樹立します。
首都はローマとしていますが名ばかりで政権はそこにはありませんでした。
また、世界的にオフィシャルには認められていない国家であり、ファシズム政権の存続のための国家といえます。
一方で、王国イタリアは降伏します。
そこからイタリアは連合国が上陸した南とドイツ軍とムッソリーニが率いる北とに分かれます。
しかし北ではパルチザンがドイツ軍やムッソリーニのファシズム政権と闘うという、
国だけでは線引きできない戦況になります。
無防備都市宣言をしたのにも関わらず、連合軍、連合軍が占める南イタリアに南下してきたドイツ軍に侵攻されます。

 

参考までに、写真家ロバート・キャパ著の「Slightly out of focus - ちょっとピンぼけ」に南からローマへ向かう連合軍サイドからの著述があります。

1944年3月23日、ナチス親衛隊によるアッピア街道から出るアルデアティーネ通りで爆破により
多くのユダヤ系イタリア人や思想、階層の異なる335名の命が一瞬にして奪われるという痛ましい事件が起きました。
このモニュメントは墓碑と爆破された岩窟がFosse Ardeatineとして遺されています。

ドイツ侵攻下のローマはネオリアリズモの先駆けの映画、ロベルト・ロッセリーニの「無防備都市」(Roma Città Aperta)でうかがい知ることができます。
時空の離れた私たちが観てもやるせなくなる終わりは、当時がどんなものであったであろうと思わせます。

そして、1944年6月ローマは連合軍によって解放されます。
1946年、進駐軍が完全撤退し、王制が廃止され、ローマはイタリア共和国の首都となりました。



ヴィットリオ・エマヌエーレ2世王のもと統一イタリアの首都となったローマは、ちょっとした建築ブームが起きます。
ヴェネツィア広場に面するタイプライターともウェディングケーキともあだ名されるヴィットリオ・エマヌエーレⅡ世記念堂、
欧州の一国の一首都としてのローマの文化の力を見せるために、パラッツォ・デッレ・エスポズィツィオーニを、
科学の力を見せるために、水族館(現・ローマ建築開館)を建設したりしています。
どちらも、凱旋門の上に勝利の女神を戴いたモニュメンタルなデザインとなっています。
時の王の名前からウンベルト様式などと呼ばれることもあります。

この頃、かつての統治者教皇というと、王の提示する教皇保障法には納得いかず、
王と教皇は対立を続けます。

1915年にはイタリアも第一次世界大戦に参戦しますが、ローマの街は国境に近いのトリエステやトレントなどに比べると直接的な被害はなかったといえます。
しかしその北イタリアの戦後の不況はファシスト・ムッソリーニを生み出す要因となり、
往時の古代ローマ帝国の権力を夢見たムッソリーニは強制的にローマに進軍し、王政のもと内閣を組閣。
ムッソリーニは王家と対立していた教皇への歩み寄り策をとり、1929年にはヴァチカンが政治的に独立した市国となることをみとめる「ラテラノ条約」を締結させます。
こうして、1870年にローマの統治が終結した教皇はエリアは狭まったものの、再び独立した権力を握るようになりました。
こうしてムッソリーニは王政イタリアのもと着実に権力をもち始めます。

その後ムッソリーニはローマ万国博覧会を開催すべく、EUR42という都市計画を、
ムッソリーニのフォロと呼ばれたスポーツ施設の複合施設をつくります。今日はフォロ・イタリコと呼ばれている、
ASローマとラツィオのホームグラウンドのスタジオ・オリンピコがあるところです。
また、テルミに駅の改築、テルミに駅の西には大学都市を築きます。
ローマの南の郊外には映画都市、チネチッタをつくりました。

これらの「都市」はイタリア合理主義建築の代表作を見ることができます。

フォロ・ロマーノとトライアヌスの市場の間にフォリ・インペリアーリを通したのはムッソリーニです。
この建設に当たり、多くのアパートが取壊されました。

やがて第二次世界大戦に突入し、1942年に計画されたローマ万博も中止され、ローマの街も戦争の影響を受け始めます。






教皇統治の下、ローマにルネッサンス、バロックの芸術を開かせた後、文化として、牛が草食む野原となっていた古代ローマ遺跡に注目が集まる時代が到来します。

グランド・ツアーで訪れるイギリス貴族の子息はお土産にローマの風景を描いた絵画を国に持ち帰ったりしました。
それを専門とするおかかえの画家も存在しました。
また、この頃は古代の遺跡は石ころでしかなかったので、お土産として古代ローマの遺跡が持ち出されてしまっています。

18世紀後半には、ヴェネト出身の建築家ピラネージによる古代ローマ遺跡の廃墟を描いた銅版画のシリーズが誕生します。
今日でも史料的に助けになるものです。

銅版画で有名なピラネージですが、鍵穴からのサン・ピエトロ大聖堂のクーポラで有名な、
アヴェンティーノの丘のマルタ騎士団の庭園を設計しています。
鍵穴からだけではなく、緑のアーチ越しのサン・ピエトロ大聖堂もおすすめです。

18世紀の終わりにはナポレオンがローマを占領し、イタリア内ではイタリア統一の機運の片鱗を見せ始めます。
いったんはオーストリア、ロシアによってナポレオンから解放されるもののナポレオンに再び侵攻されます。

ローマが舞台のオペラ「トスカ」はこの時代背景の物語です。

その後、マッツィーニやガリバルディなどの愛国主義者たちが蜂起し、教皇はフランスサイドに逃亡し、1848年にはローマ教皇領であったローマは共和国宣言しました。
しかしフランス軍によってガリバルディは追放され、ローマは統一されずのままでした。
1861年、トリノを首都にサヴォイ家のヴィットリオ・エマヌエーレ2世初代王の下、ローマ以外のイタリアは統一されます。

そして1870年、王制下の軍隊がローマに入り、ローマを含めたイタリア統一が完了します。
それは長い間続いたローマの教皇統治の終わりを告げるものでした。
翌、1871年にはローマは王政統一イタリアの首都となったのです。

ノメンターナ街道のポルタ・ピア(ピア門)に1870年のイタリア統一の記念碑があります。
また、1800年代のローマの様子はフランスの文豪スタンダールが主観的なガイドブックとして
「ローマ散歩」という本を書いており、そこに生活の描写も含めた当時のローマが描き出されています。

またこの時代には、詩人のキーツ、シェリー、ゲーテがローマに滞在し、ローマに関する作品を残しています。
キーツ、シェリー、ゲーテの息子はローマに眠っています


モニュメントではジャニコロの丘の上に、フランスの砲撃により亡くなった戦士の墓碑があります。
また頂上にはガリバルディの像がローマを見下ろしており、"O Roma o morte"(ローマか死か)とモニュメントの礎石に彫られています。

また今日でも馴染みのあるポポロ広場はナポレオンとフランス軍のローマ侵攻の間の1816年に完成しています。

これがリソルジメントといわれるイタリア統一運動で、広場や通りの名前に、Risorgimento、Cavour、Mazzini、Garibaldi、Vittorio Emanueleなどが使われています。




カトリック教会がとてつもなく裕福であった16世紀に、ローマはその富も力もある教皇の下、ベルニーニとボッロミーニという芸術家がローマの街を装飾し始めます。
そして二人は、後世の美術評論家達にバロックと呼ばれる芸術様式の先駆者となります。
このバロック芸術が今日のローマの都市空間を特徴づけているといっても過言ではないでしょう。

何かとライバルとして著述されるベルニーニとボッロミーニの他にも、ローマにバロックの華を咲かせた芸術家達はたくさんいます。
優秀な大理石職人を輩出してきたスイスのティチーノ州から才能ある多くの職人がローマにやってきています。
カルロ・フォンターナ、カルロ・マデルノ、ドメニコ・フォンターナが挙げられます。
そしてローマに来たら教会の絵を見ることをおすすめしたい、カラヴァッジョです。
美術館でも見ることができますが、聖アゴスティーノ教会、サンタ・マリア・デル・ポポロ教会、サン・ルイージ・デイ・フランチェージ教会を訪れることをおすすめします。
教会の暗さがカラヴァッジョ絵画の光と影のコントラストを活かしています。

この頃の教会は、ローマカトリックの権威のみの教会だけではなく、
ローマの掠奪で疲弊したローマ市民は新しい心の拠り所を求めたことと合い重なり、
イエズス会、オラトリオ修道会などの教会が生まれます。

イエズス会の教会、ジャコモ・デッラ・ポルタによるジェズ教会のファサードはバロック様式の初期のものです。
オラトリオ修道会の小礼拝堂はボッロミーニが手がけています。

ルネッサンス期に始まったサン・ピエトロ大聖堂の改築は1626年に献堂されるまで続きました。
1606年にはミケランジェロが計画したギリシャ十字の平面の一面が、カルロ・マデルノによって、現在のファサードのところまで延ばされ、ラテン十字の平 面となりました。そのマデルノによってファサードが完成され、
正面にはベルニーニよる壮大なサン・ピエトロ広場がつくられ、1502年に投げかけられたプロジェクトにピリオドが打たれます。

このバロックの時期は数ある広場が美しい噴水で飾られた時代でもあります。
ナヴォナ広場の四大河の噴水などの噴水群、バルベリーニ広場にはベルニーニの噴水が2つ、スペイン広場のバルカッチャの泉、そして時代は下りますが、ローマに来たら寄らずには去ることができないトレヴィの泉。
素晴らしいのは、噴水だけの美しさだけではなく、都市の空間を見事に演出しているということです。

ベルニーニにおいては教会の内部をその官能的ともいえる彫刻で飾りました。
ボッロミーニにおいてはその革新的な独特の曲線において教会の空間を、ファサードを美しく生み出しました。
二人の巨匠の影に隠れがちなピエトロ・ダ・コルトーナのバルベリーニ宮殿の天井画も息をのむほど美しい。

このような素晴らしい芸術が生まれたのも教皇という権力をもった庇護者がいてのことで、
特に、バルベリーニ家出身の教皇ウルバヌス8世はベルニーニのよきパトロンでした。

1700年代に入るとフランスの資金援助を得て、スペイン階段がつくられ、ローマは劇場空間都市となります。

1734年にはクレメンス12世によりカンピドーリオの丘のヌォーヴォ宮殿が世界で最初の美術館として一般に公開されます。
現在のカピトリーニ美術館です。

文化がこれだけ華開き、順風万帆のようですが、これだけの建築の資材がすべて新しく調達できたわけではありません。
この時代のコロッセオは石切り場で、古代の遺跡が新しい建物のために切り出されていきました。
サン・ピエトロ寺院のベルニーニのバルダッキーノ(天蓋)のためにパンテオンにあった2本の鐘楼の鐘が熔かされました。
確かにこの頃は、古代ローマ時代の遺跡は牛が放牧されているほどの荒れようでした。
1660年ごろになると、イギリスの裕福な貴族の子息がフランス、イタリアを旅して学ぶ、修学旅行のようなグランド・ツアーが流行り始め、古代遺跡にも再びスポットが当たり始めます。







北方民族の侵攻とペストに侵され、さらには教皇庁も失った中世のローマですが、
1377年に教皇庁がアヴィニヨンからローマに戻ります。その後、ピサに一時期遷るものの、
1447年には教皇ニコラウス5世のもと、ローマは教皇統治の街となります。
それは、1871年のイタリア統一まで続きます。

ローマのルネッサンス期の教皇たちは、その時代の偉大な芸術家がその肖像画を残しているように、
ユリウス2世、レオ2世など芸術のよき庇護者でした。

サン・ピエトロ大聖堂が、構造的な問題が理由で改修が始まります。
ここから一気にルネッサンスの華が咲きます。
ルネッサンス期にこのおおがかりなプロジェクトの指揮、建築家ブラマンテ。
ブラマンテはサン・ピエトロ大聖堂を手がける前にジャニコロの丘の上に美しい小寺院、テンピエットを建てています。
小さい中に均整の取れたエレメントがすべて詰まっている建物です。

サン・ピエトロ大聖堂のために制作されたミケランジェロの彫刻、「ピエタ」はミケランジェロのローマでの最初の作品です。
大聖堂の入口近くにあるこの彫刻は、今日も常にたくさんの人だかりをつくっています。
ローマを訪れたら見逃すことのできない作品のひとつです。

このヴァチカン界隈以外には、カンポ・ディ・フィオーリに近い、今はフランス大使館となっているファルネーゼ宮殿、
今は内務省及び絵画館になっているスパーダ宮殿などがルネッサンス期の建築です。
この時期、このエリアとヴァチカンのアクセスをよくしたVia della Giulia(ジュリア通り)が計画されています。
Giuliaは教皇ユリウス2世のユリウスというイタリア語名に由来します。
また、ここからテヴェレ川のちょうど反対側のファルネジーナ荘も、建築、中のラッファエッロのフレスコ画と共に
ルネッサンスを代表するものです。

ヴァチカンでは教皇の住まいであった現在のヴァチカン美術館のシスティーナ礼拝堂や宮殿の間が、
ミケランジェロやラッファエッロ、フィレンツェでもその才能を咲かせた芸術家たちによって飾られました。

1527年にはルネッサンスの芸術で満たされたローマをカルロス5世が襲いかかります。
「ローマの略奪」といわれる事件です。
当時の教皇クレメンス7世は、パセットと呼ばれているヴァチカンとサンタンジェロ城をつなぐ回廊を通り避難しました。

混迷を極めたサン・ピエトロ大聖堂の改築工事はミケランジェロが主任建築家になりますが、まだまだ終わりが見えてきません。

中世で廃墟と化していたローマの街はこのルネッサンス期に一気に花開きましたが、
一方でローマの掠奪による不安定さが市民に心の拠り所を求めさせます。


一般的には西方のローマ帝国が滅びた時を境に中世としていますので、
皇帝たちがいなくなり、教皇たちが支配するローマは中世の始まりといえるでしょう。

中世のローマは、ローマの街の歴史の中で侵攻が繰り返される厳しい時代です。

8世紀にはまだ、イングランドウェセックスのイネ王やカール大帝がサン・ピエトロ大聖堂に巡礼しており、
ローマの街は歴史の舞台に上がっています。

しかし、かつての東方のローマ帝国に統合されたり、ローマは自立するのが難しくなってきます。
9世紀にはサラセン人、11世紀にはノルマン人に侵攻されます。
チェリオの丘には、当時の侵攻の際に築かれたアーチがいまだに残っています。

その中でもローマに中世の活躍を今日に残すのはコズマ一族です。
中世期に改築もしくは新築された教会の床の大理石のモザイク、祭壇、玉座などの見事な大理石装飾を手がけています。

この頃の代表的な作品として
改修されたサンタ・マリア・イン・トラステヴェレ教会、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂の回廊、
サン・クレメンテ教会などがみどころです。
サン・クレメンテ教会はこの時代に限らず、古代からの時代の積み重なりがまさに建物の積み重なりになっており、おすすめしたい教会です。

1300年にははじめてのジュビレオ(聖年)が祝われました。
アッシジのサン・フランチェスコ大聖堂のフレスコ画で有名なジォットがローマを訪れており、
サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂に絵画ほどの大きさの壁画を残しています。
ヴァチカン美術館でもジォットの作品を見ることができます。

1309年には教皇庁がアヴィニヨンに移り、そしてペストに襲われたローマは
かつての栄華の見る影もない荒廃した人口数千人の街となりました。

中世の終わりにはコーラ・ディ・リエンツォという、教皇と貴族に痛めつけられた生活から脱却するためには、
古代ローマを再築しようではないかと活動した人物が登場します。
もちろん、失敗に終わっていますし、人びとを熱狂はさせたものの最後は変人扱いでした。
このコーラ・ディ・リエンツォの家と言われている家がアヴェンティーノにあります。
また、ヴァチカンに近いプラーティ地区には通り名として残っており、食料雑貨店や洋品店が並ぶショッピング・ストリートになっています。









すでにローマの社会に浸透していたキリスト教が、紀元300年代にコンスタンティヌス帝により公認されます。
それまでのキリスト信仰の集会所はそれを信仰してきた貴族の邸宅であったりましたが、
使徒ペテロの墓の上に建物がつくられます。現在のサン・ピエトロ大聖堂があるところです。

この頃建設された教会は、公会堂の平面をとるバジリカ様式のもので、
祭壇のあるアプシスと身廊の境には皇帝たちの凱旋門のようなアーチがあるのが特徴です。
キリスト教会ですが、ローマ帝国の公共建築の影響を受けています。

アヴェンティーノの丘の上に建つ、サンタ・サビーナ聖堂がローマにある初期キリスト教建築の代表的なものです。
サンタ・サビーナ聖堂がたてられた5世紀はゲルマン系民族のローマへの度重なる侵攻により、
ローマは政治的な力はほとんど失っており、475年には西方のローマ帝国、西ローマ帝国が崩壊し、
ローマの栄光は過去のものとなりました。

この時代のみどころは、キリスト教の集会所であったところから教会への変遷がみられる教会、
キリスト教徒の殉教の地などがあります。

この頃にはキリストの両脇にローマの守護聖人ペテロとパウロ、
キリストの象徴として羊飼い、キリスト教徒の象徴として羊がモザイク画、フレスコ画、彫刻などに表現されるようになってきます。
ノメンターナ街道沿いのサンタ・コスタンツァ教会でこの時代のモザイクが見ることができます。

共和国時代の最後に生きたカエサルに指名されたオクタヴィアヌスは、
紀元前27年初代皇帝アウグストゥスとなり、帝国ローマが誕生します。

同じ頃、キリストも誕生していますが、キリスト教が公認されるのは、
ここから4世紀も後のことになります。

交易と属州からの税により潤ったローマ帝国はさらに発展していきます。
Roma Caput Mundi、世界の都といわれたローマの街もモニュメンタルな建造物が
増えてきます。
今日でも世界中の旅行者がまずは訪れる、パンテオン、コロッセオなどがそのほんの一部です。

帝国時代の建造物は概ね、皇帝の名を戴いているので、誰の時代に造られたかがわかりやすいと思います。
コロッセオは、いわゆるあだ名で呼ばれていて、フラヴィアヌスの円形競技場(Anfiteatro Fravio)が正式な名前です。
皇帝ヴェスパシアヌスの家名を取ってつけられています。
その他、カラカラ浴場はカラカラ帝、アウレリアヌスの壁はアウレリアヌス帝など、皇帝の名前がついています。

悪名高い皇帝ネロは帝国ローマの初期の皇帝で、ちょうど、キリストの使徒ペテロと改宗者パオロ
ローマに教えを広めにやってきたころの皇帝で、皇帝ネロによるキリスト教の迫害はひどく、
ローマの守護聖人となったペテロとパオロも迫害によって殉教しています。

ハドリアヌス帝は審美眼があったとされ、パンテオンの改築やローマ近郊のティボリに美しいヴィラをつくっています。
ティボリはローマから日帰りで行くことができます。

紀元3世紀のアウレリアヌス帝の時代になるとローマの街は再三の攻撃を受け、
街の防衛のために壁を張り巡らすことになります。
この壁は今日でも残っており、行政上の歴史的地区(チェントロ・ストーリコ)と呼ばれる範囲の境になっています。
また、フィウミチーノ空港からのタクシーの均一料金の適応範囲にもなっています。ローマらしいですね。

この頃には皇帝は次々と変わり、284年にはローマ帝国は東西に分裂します。



紀元前509年に王政が倒され、ローマは共和国となります。
カエサルの時代まで共和政が約500年続きます。

共和国時代の詳しい戦いなどはこちらでは省きますが、
敵将ではハンニバル、そのハンニバルを倒したスキピオ、
スッラ、ポンペイウス、そしてユリウス・カエサルがこの時代の登場人物です。

この時代はローマは領土を広げていきますが、その分、常に闘っていた時代でもあります。
またローマが誇るインフラが開花した時代でもあります。
アッピア街道を初めとする街道や、アッピア水道橋です。
領土が広がれば中心地ローマの人口は増えていき、
井戸の水だけでは足りなくなってアッピア水道橋がつくられます。

この時代の遺跡はほとんどが地下に埋まっています。
神殿が、ラルゴ・アルジェンティーナやボアリム神殿に見ることができます。

アッピア旧街道は当時の面影を残しています。
ポポロ広場から北にのびる、フラミニア街道は通りこそ残っていいますが、
アッピア街道のように当時をしのばせることはなく、今日の道として機能しています。

フォロ・ロマーノに見られる建物群からわかるように、当時の建物のほとんどは
レンガとコンクリートを使ったものです。

石のイメージがありますが、当時は
限られた公共建築のみが大理石で造られました。


ローマの建国の父ロムルスの伝説は鉄器時代にさかのぼります。
このころ、ローマの7つの丘には羊飼いや農民が住んでいました。
エトルリアの文化がこの辺りにも広まっており、
エトルリア時代の宝石や鋳物などを見ることができます。

ロムルスとその双子の弟レムスはパラティーノの丘に近い沼地で発見され、
雌狼によって育てられてという伝説から、今日でも雌狼の乳を飲む双子の赤ん坊の
彫刻やレリーフ等がローマの至るところで見ることができます。
その双子の誕生についてはあくまでも伝説なので、ギリシャの神の子どもとされていますが、
生まれは古代ラティウムの街、アルバ・ロンガ生まれとされています。
現在ローマがある州がラツィオ州であるのは、このラティウムに由来します。

このロムルスを初代王としてローマ七賢王の時代が、紀元前509年に共和政のローマが誕生するまで、
約200年以上に渡って続きます。

このローマの建国の伝説ですが、双子の兄弟は統治をめぐって命がけの戦いをします。
ロムルスがパラティーノの丘を陣取り、弟レムスはアベンティーノの丘を陣取ります。
結果、ロムルスが勝利するわけですが、その後、ローマは男性の数が圧倒的に多すぎて、
サビーニ族に女性を妻として迎えるべく交渉を始めるのですが失敗に終わり、
サビーニ女たちの略奪が起きます。
こちらの出来事は後に画家、彫刻家の題材となります。
ローマではローマのバロックでベルニーニとボッロミーニと並んで重要なピエトロ・ダ・コルトーナによって描かれ、
カピトリーノ美術館にあります。

ロムルスによって建国されたローマは、ロムルス以降、7代の王が続きます。

この時代の遺跡や美術品
この時代の遺跡はテルミニ駅周辺で見ることができます。
セルウィアヌスの壁です。
テルミニ駅の地下を歩いていると突然ある遺構です。
こちらはセルウィアヌスの壁の補強で、王の時代にローマを囲っていた壁です。

テルミニ駅近くのローマ建築士会館のある庭にも残っています。
また、ロムルスとレムスが発見されたという沼地は、真実の口のあるサンタ・マリア・イン・コスメディン教会の近くの
サン・ジョルジョ・イン・ヴェラーブロ教会辺りといわれています。
地図で見るとわかりますが、その辺りはテヴェレ川の蛇行が激しいところで、
水浸しのエリアだったようです。

また、ローマのアイコン的シンボルとなっている雌狼はこの時代のものとされています。
双子の兄弟は後に付け足されたものです。
こちらはオリジナルはカピトリーノ美術館、レプリカはフォロ・ロマーノが見下ろすことができる、
カンピドーリオ広場のサン・ピエトロ・イン・カルチェレ通りを上りきったところにあります。








まだまだ作成段階ですが。


より大きな地図で Roma Capoccia を表示

観光に便利なバスのルートマップです。 すべてが載っているわけでなないですが、

歴史的中心地区やアッピア街道へ行く時に。

 

 


より大きな地図で 観光に便利なバス を表示

 

 

 

ローマで美術館や博物館を自由行動でまわる際にリーズナブルなのが、ローマパス、ROMA PASS。
 コンパクトな歴史地区範囲のローマ地図と公共機関が自由に乗り降りできる乗車券がセットになって、 さらに美術館や博物館の割引があります。

ローマの街を公共交通機関で移動する際には、 メトロ(地下鉄)、バス、トラム、もしくはイタリア鉄道のローカル線での移動になります。

フィウミチーノ空港からタクシーで市街に向かえば、荷物の多い中、列車移動よりははるかに楽です。
ただし、やはり気になるのが法外とはいわなくても高い値段を提示されること。

ローマ市では、認可タクシーは空港利用者向けに、フィウミチーノ空港もチャンピーの空港も価格が設定されています。

フィウミチーノ空港が40ユーロ
チャンピーの空港が30ユーロ

です。

ではローマのどこまでが40ユーロかというと、ローマ市街を囲むアウレリアヌスの壁の中、です。 歴史的地区(通称チェントロ)に近いところに宿を取っていれば、このアウレリアヌスの壁の中ということに該当するでしょう。 アウレリアヌスの壁の中という規定がなんともローマという街らしくてほほえましいです。行政区画上も、このアウレリアヌスの壁が使われているのです。
こちらの「ローマ散歩地図」の赤い囲みをご参考にどうぞ。

こちらはローマ市のホームページのタクシー料金に関するリンクです。
ローマ市が告知するタクシー料金の案内(イタリア語)


では、ローマ市街からフィウミチーノ空港までは、タクシー乗り場まで近ければそこで待つのもいいですが、 無線タクシーを呼んだ場合は、呼んだ場所までの所要時間で40ユーロに上乗せされていきます。

5分以内で プラス2ユーロ
10分以内で プラス4ユーロ
10分以上かかったら 6ユーロが上乗せされます。

何分かかったかはタクシードライバーの自己申告ですから、なんともですが、それでもマックス6ユーロですから、
アウレリアヌスの壁内からでしたら、最高でも46ユーロで空港まででいける「はず」ということです。

最近ではリムジンサービスなどもタクシー以外にもあるようです。
車種もリムジンの方がゆったりですので、価格はタクシーよりもかかるかもしれませんが、そいう選択もあります。

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フィウミチーノ空港に着いたらローマ市街へ向かいましょう。
その前に空港のバールでエスプレッソを一杯飲んで一呼吸入れるのもよいですね。
カフェ・マッキアーでト、0.85ユーロ。ミラノよりは安い。空港という施設にしては親切価格。

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列車でローマ市街に向かうことが決まったら、まず、到着ターミナルの上の階に行きましょう。
エレベーターがおすすめです。 Treno( 電車)と書かれたサインに階段を下る案内がある場所がありますが、

毛むくじゃらに見えなくもない、ウェットスーツ着用にも見えなくない像ですが、
バブイーノという愛称をもつローマの「もの申す像」のひとつです。
babuino
こんな表現をしてしまいましたがギリシャ神話のディオニュソスに仕える半獣神のシレノスらしい。

もっとも有名な「もの申す像」はパスクイーノ。

名前の通り、スペイン広場からポポロ広場に抜けるバブイーノ通りの、教皇ピウス5世の時代につくられた泉の前にしどけなく横たわっております。

「もの申す像」ってなに?の場合はこちらでどうぞ。
街角のバブイーノはこちら。

また、バブイーノの後ろにあるのはおすすめのカフェ・レストランです。
インフォメーションはこちらからどうぞ






ナヴォナ広場からコルソ・ヴィットーリオ・エマヌエーレⅡ世通りに向かうと、pasquino-schedario
べたべたと貼り紙のされたのっぺらぼうに近い像が建っています。

ローマのもの申す像、Statua parlanteの中で一番有名なのが、こちらパスクイーノ君。
1501年のオルシーニ家の宮殿の建設までは薄汚い泥だらけの薄暗い中世の街角でしかなかったこの界隈に、他の像たちと共にごろんと横たわっているだけでした。
おかげで、どこの誰だかわからないような顔になってしまっていますが、3世紀あたりの彫刻とか。
この界隈が整備されて、パスクイーノが置かれました。
現在はブラスキ宮殿となっています。

この頃、ローマは教皇領でローマ教皇の支配下にありましたが、庶民の暮らしは大変で、それでも公に物を言うことはできません。
そこで、近所の歯に衣をきせぬ物言いをする靴屋の主人、パスクイーノはこの像に落首を貼り付けました。
するとみるみるうちにこれが流行ったそうです。
人々は刑罰を恐れて夜中にこっそり貼ったとか。

その後、靴屋の主人の名をとって、パスクイーノと名づけられました。

その後、教皇領の続く19世紀までこの風習は庶民の間で続きます。

もちろん、パスクイーノひとりがおしゃべりしていたわけではなく、
今はカピトリーニ美術館に展示されるほど格上げされたモルペウスは、カンピドーリオ通りでしゃべっていました。
また、バブイーノ通りのバブイーノもいっしょにおしゃべりしました。

一番有名なこのパスクイーノはなんと、pasquinata(パスクイナータ)、風刺文という意味のイタリア語にまで昇格してしまいました。
また、トラステヴェレにあるパスクイーノという映画館もこのパスクイーノに由来します。
もちろん、上映している映画は普通の映画ですが、英語で上映されるため、旅行者やイタリア語に不慣れな人たちに利用されています。

もちろん今日でもいろいろ貼られています。
皆さんも何かパスクイーノで物申してみてはいかがでしょう。


これほどたくさんの遺跡を残しておきながら、lupa

ローマという街の発祥は伝説として語られています。

その伝説に欠かすことができないのが雌狼。
建国の父ロムルスと、その双子の兄弟レムスを育てたとされています。

 

この雌狼と乳を飲む双子の像やレリーフはいたる所にありますが、
アイコン的な存在はカンピドーリオの丘の上にある像です。
雌狼は紀元前5世紀のエトルリア文明のもの、
反り返る勢いで乳を飲む双子は15世紀に付け足されてたとされています。
すでにここで、1000年以上のの隔たりがあるとはローマの歴史とはいったい・・・。

 

オリジナルはカンピドーリオの丘の上のカピトリーニ博物館にあります。

 

ローマの街にはどのくらいのこの雌狼と双子の兄弟のシンボルがあるのでしょうか。
ときどき、反り返った姿勢の赤ん坊像のみを見かけます。
雌狼はいないのですが、激しい姿勢から、おそらくあの双子の兄弟だな、
と想像したりできるのも。

 

また、セリエAのASローマのエンブレムにもこちらの雌狼と双子の兄弟が入っております。
ASローマオフィシャルサイトはこちら。
ちなみに、ASローマのマスコットはロモロです。
ロムルスのイタリア語名です。



石畳の街並みって風情があってステキ、といっていられない、sanpietrini-3
悪評高きローマの石畳、サンピエトリーニ。
 日本ではピンコロ石と呼ばれているものと同じようなもの。

ヒールの女性泣かせでもありますが、
そこを走る車にもかなり悪影響を与えてるようで、
近年はアスファルト化の傾向があります。

とはいいつつもローマの街って突然アスファルトの道路が陥没したり、
歩道を歩いていたら足が入りそうなほどの穴がアスファルトに開いていたりするので
どのみち害があるのなら風情のあるサンピエトリーニの方がよいかな。

それにサンピエトリーニって雨で濡れたときに銀鼠色になってとてもステキ。
 夜だったらそこに映りこむオレンジ色の光がとてもロマンチック。

つまづかされてもサンピエトリーニに一票。

ミラノに飛び火するけれど、ミラノの玉石洗い出し床のような道の方が
履き心地の悪い健康サンダルみたいで×。

ちなみにサンピエトリーニはサン・ピエトロ、聖ペテロの名前のようですが、sanpietrini-2
 ペテロもそもそも岩とか石とかそのような意味のあだ名のようなものだったので、
あえてサン=聖をつけてローマっぽくしているのでしょうか。

踏みつけるのはいかがなものかと思いますが。

暑いローマで散歩の途中ののどが渇いたときの助っ人、nasoni(ナゾーニ)です。nasoni
 水飲み場です。

naso(ナーゾ)はイタリア語で鼻。
それが大きいものを表す拡大辞-oneがさらに複数形になってnasoni。
 象の鼻のような形をしているからでしょうか。

みんなものですよ、ということでS・P・Q・R=Senatus Populusque Romanusのロゴ入りです。
シンプルな蛇口のものから、ローマらしく狼の顔をしたものまで、種類はいろいろ。
 お気に入りのナゾーニを見つけてみましょう。

ちなみにこのナゾーニはマイルストーン、ですね。
あのアッピア旧街道のポルタ・サン・セバスティアーノの近くにあるあれです。



水栓もなく、流れ放しの水飲み場。でもこれでは飲みにくい。nasoni-2
 ところが、一工夫されており、蛇口の上部に穴が開いています。
下に流れる水を指で止めれば、はい、水飲み仕様に。

水が豊富なローマならではです。

八百万の神に守られていた古代ローマとは違い、今は一神教の神を信じる街になりました。

ローマには二人の守護聖人がいます。ペテロとパウロです。イタリア語でピエトロとパオロ。

赤いラインは、アウレリアヌスの壁。 空港からのタクシー均一料金の目安にもなるので、乗車、下車の際の参考にどうぞ。


より大きな地図で ローマをお散歩 を表示

 

 

 

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