教皇統治の終焉そしてイタリア統一へ





教皇統治の下、ローマにルネッサンス、バロックの芸術を開かせた後、文化として、牛が草食む野原となっていた古代ローマ遺跡に注目が集まる時代が到来します。

グランド・ツアーで訪れるイギリス貴族の子息はお土産にローマの風景を描いた絵画を国に持ち帰ったりしました。
それを専門とするおかかえの画家も存在しました。
また、この頃は古代の遺跡は石ころでしかなかったので、お土産として古代ローマの遺跡が持ち出されてしまっています。

18世紀後半には、ヴェネト出身の建築家ピラネージによる古代ローマ遺跡の廃墟を描いた銅版画のシリーズが誕生します。
今日でも史料的に助けになるものです。

銅版画で有名なピラネージですが、鍵穴からのサン・ピエトロ大聖堂のクーポラで有名な、
アヴェンティーノの丘のマルタ騎士団の庭園を設計しています。
鍵穴からだけではなく、緑のアーチ越しのサン・ピエトロ大聖堂もおすすめです。

18世紀の終わりにはナポレオンがローマを占領し、イタリア内ではイタリア統一の機運の片鱗を見せ始めます。
いったんはオーストリア、ロシアによってナポレオンから解放されるもののナポレオンに再び侵攻されます。

ローマが舞台のオペラ「トスカ」はこの時代背景の物語です。

その後、マッツィーニやガリバルディなどの愛国主義者たちが蜂起し、教皇はフランスサイドに逃亡し、1848年にはローマ教皇領であったローマは共和国宣言しました。
しかしフランス軍によってガリバルディは追放され、ローマは統一されずのままでした。
1861年、トリノを首都にサヴォイ家のヴィットリオ・エマヌエーレ2世初代王の下、ローマ以外のイタリアは統一されます。

そして1870年、王制下の軍隊がローマに入り、ローマを含めたイタリア統一が完了します。
それは長い間続いたローマの教皇統治の終わりを告げるものでした。
翌、1871年にはローマは王政統一イタリアの首都となったのです。

ノメンターナ街道のポルタ・ピア(ピア門)に1870年のイタリア統一の記念碑があります。
また、1800年代のローマの様子はフランスの文豪スタンダールが主観的なガイドブックとして
「ローマ散歩」という本を書いており、そこに生活の描写も含めた当時のローマが描き出されています。

またこの時代には、詩人のキーツ、シェリー、ゲーテがローマに滞在し、ローマに関する作品を残しています。
キーツ、シェリー、ゲーテの息子はローマに眠っています


モニュメントではジャニコロの丘の上に、フランスの砲撃により亡くなった戦士の墓碑があります。
また頂上にはガリバルディの像がローマを見下ろしており、"O Roma o morte"(ローマか死か)とモニュメントの礎石に彫られています。

また今日でも馴染みのあるポポロ広場はナポレオンとフランス軍のローマ侵攻の間の1816年に完成しています。

これがリソルジメントといわれるイタリア統一運動で、広場や通りの名前に、Risorgimento、Cavour、Mazzini、Garibaldi、Vittorio Emanueleなどが使われています。








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