ムッソリーニの登場とヴァチカンの独立





ヴィットリオ・エマヌエーレ2世王のもと統一イタリアの首都となったローマは、ちょっとした建築ブームが起きます。
ヴェネツィア広場に面するタイプライターともウェディングケーキともあだ名されるヴィットリオ・エマヌエーレⅡ世記念堂、
欧州の一国の一首都としてのローマの文化の力を見せるために、パラッツォ・デッレ・エスポズィツィオーニを、
科学の力を見せるために、水族館(現・ローマ建築開館)を建設したりしています。
どちらも、凱旋門の上に勝利の女神を戴いたモニュメンタルなデザインとなっています。
時の王の名前からウンベルト様式などと呼ばれることもあります。

この頃、かつての統治者教皇というと、王の提示する教皇保障法には納得いかず、
王と教皇は対立を続けます。

1915年にはイタリアも第一次世界大戦に参戦しますが、ローマの街は国境に近いのトリエステやトレントなどに比べると直接的な被害はなかったといえます。
しかしその北イタリアの戦後の不況はファシスト・ムッソリーニを生み出す要因となり、
往時の古代ローマ帝国の権力を夢見たムッソリーニは強制的にローマに進軍し、王政のもと内閣を組閣。
ムッソリーニは王家と対立していた教皇への歩み寄り策をとり、1929年にはヴァチカンが政治的に独立した市国となることをみとめる「ラテラノ条約」を締結させます。
こうして、1870年にローマの統治が終結した教皇はエリアは狭まったものの、再び独立した権力を握るようになりました。
こうしてムッソリーニは王政イタリアのもと着実に権力をもち始めます。

その後ムッソリーニはローマ万国博覧会を開催すべく、EUR42という都市計画を、
ムッソリーニのフォロと呼ばれたスポーツ施設の複合施設をつくります。今日はフォロ・イタリコと呼ばれている、
ASローマとラツィオのホームグラウンドのスタジオ・オリンピコがあるところです。
また、テルミに駅の改築、テルミに駅の西には大学都市を築きます。
ローマの南の郊外には映画都市、チネチッタをつくりました。

これらの「都市」はイタリア合理主義建築の代表作を見ることができます。

フォロ・ロマーノとトライアヌスの市場の間にフォリ・インペリアーリを通したのはムッソリーニです。
この建設に当たり、多くのアパートが取壊されました。

やがて第二次世界大戦に突入し、1942年に計画されたローマ万博も中止され、ローマの街も戦争の影響を受け始めます。










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