戦況の悪化により、ムッソリーニが計画したローマ万国博覧会も中止となり、
現在もEUR(エウル)と呼ばれる地域には工事が取りやめになった建物が点在していました。
1943年7月19日にはサン・ロレンツォ地区などが空襲を受けます。
その後すぐにムッソリーニはノメンターノ地区にあるトルローニアの館にて逮捕されます。
ヴィットリオ・エマヌエーレ3世によって首相職を失墜させられました。
このトルローニアの館はローマの最後の王家のひとつトルローニア家のもので、
ムッソリーニのローマの居でした。
現在も美術館として彫刻の他、ムッソリーニの寝室も展示しています。
また、同館には当時の進駐軍が壁に描いた絵がそのまま残されています。
1943年8月14日にローマは無防備都市宣言をします。
同年9月、王と袂を分ったムッソリーニはローマを含むローマ以北のイタリアをイタリア社会共和国として樹立します。
首都はローマとしていますが名ばかりで政権はそこにはありませんでした。
また、世界的にオフィシャルには認められていない国家であり、ファシズム政権の存続のための国家といえます。
一方で、王国イタリアは降伏します。
そこからイタリアは連合国が上陸した南とドイツ軍とムッソリーニが率いる北とに分かれます。
しかし北ではパルチザンがドイツ軍やムッソリーニのファシズム政権と闘うという、
国だけでは線引きできない戦況になります。
無防備都市宣言をしたのにも関わらず、連合軍、連合軍が占める南イタリアに南下してきたドイツ軍に侵攻されます。
参考までに、写真家ロバート・キャパ著の「Slightly out of focus – ちょっとピンぼけ」に南からローマへ向かう連合軍サイドからの著述があります。
1944年3月23日、ナチス親衛隊によるアッピア街道から出るアルデアティーネ通りで爆破により
多くのユダヤ系イタリア人や思想、階層の異なる335名の命が一瞬にして奪われるという痛ましい事件が起きました。
このモニュメントは墓碑と爆破された岩窟がFosse Ardeatineとして遺されています。
ドイツ侵攻下のローマはネオリアリズモの先駆けの映画、ロベルト・ロッセリーニの「無防備都市」(Roma Città Aperta)でうかがい知ることができます。
時空の離れた私たちが観てもやるせなくなる終わりは、当時がどんなものであったであろうと思わせます。
そして、1944年6月ローマは連合軍によって解放されます。
1946年、進駐軍が完全撤退し、王制が廃止され、ローマはイタリア共和国の首都となりました。