ローマに取り囲まれた独立した場所、ヴァチカン市国をほぼ占める大聖堂。ローマ四大バジリカのひとつ、そしてローマカトリックの総本山。
ヴァチカン市国は違う国、といってもパスポートがいるわけでもなく、白い線を越えたらそこはヴァチカン市国、
サン・ピエトロ広場が迎えてくれる。
サン・ピエトロ大聖堂は、ローマの守護聖人の一人で、キリストの使徒の一人でもあるペテロのお墓の上に建てられた聖堂。
ローマンカトリックの権威。信仰のないものでも厳かな気分になるのは、数々の芸術家達の「仕掛け」が成す技といえる。
大聖堂の現在のファサードは1614年にバロックのカルロ・マデルノによって完成された。
cupolone(クポローネ=イタリア語で大きなクーポラの意)の愛称をもつサン・ピエトロ大聖堂のクーポラが
ファサードのデザインのおかげで見えない、といわれ続けてきたが、
困難を極めたプロジェクトのファサードを形にしたのだから偉業、っといえる。
現在の姿への改築プロジェクトは1500年代はじめに始まり、なんと献堂されたのは1626年になる。
入口には聖なる扉(ポルタ・サンタ)があり、聖年のみに開けられ、ここを通ったものは罪が贖われるということで
最近の2000年のジュビレオ(聖年)には世界中から巡礼者がここを訪た。
扉が閉められる、2001年の1月6日にはものすごい列ができていた。
中にはいるとすぐ右には、天才ミケランジェロの若き日のピエタ像があり、常に人だかり。
1970年代に像を破壊するという事件が発生したため、今はガラスでガードされてしまっているのが残念。
先に進むとこペテロのブロンズ像があり、人々が触れる足は磨かれて光っている。
巡礼者はもちろん、どれだけ多くの旅行者達がここを訪れたかを物語っている。
正面にはバロックの巨匠ベルニーニによる見事なバルダッキーノ(天蓋)がある。
このバルダッキーノをつくるにあたり、経済事情により材料を調達できなかったため、
今は見ることはない、パンテオンに角のようについていた2棟の鐘楼の鐘を溶かして、
このバルダッキーノに充てたという。
その上のクーポラはミケランジェロによるもの。
ここまでだけでもルネッサンスとバロックの芸術を堪能することができるのであるから豪華きわまりない。
ここは美術館ではなく、教会である。
教皇がパトロンとなり、それに芸術家たちが才能を発揮した、そういう時代が、古代ローマが滅亡し、
困難の中世を乗り越えたローマが迎えたローマが再び花開く時代。
地下には代々の教皇のお墓がある。
またクーポラには階段かエレベーターで上ることができる。
階段でクーポラの上のほうに行くと、壁が斜めなので平衡感覚が狂い、まっすぐに歩くことができない、
とても不思議な体験をする。
高い塔がローマにはないので、ここが一番高いところ。
聖堂前のベルニーニのデザインのサン・ピエトロ広場の列柱が小さく見える。
1277年にできた教皇有事の際の回廊についてはこちら。
1527年のローマ掠奪の際に実際に使われている。
近年の映画、「悪魔と天使」の映画に登場し、スポットを浴びたのがまだ記憶に新しい。
長い長いサン・ピエトロ大聖堂の歴史は次のページで。
ひとまず地図を。
■ サン・ピエトロ大聖堂
Basilica di San Pietro
Piazza San Pietro- Citta’ del Vaticano
クーポラと宝物館は有料
メトロでも行くことができますが正面のコンチリアツィオーネ通りからまっすぐのアプローチがおすすめです。
この通りにはカトリックの書籍、お土産などのきれいなお店が並んでいます。
バス テルミニ駅から40番
メトロA線 Ottaviano(オッタヴィアーノ)駅
※この記事の内容は掲載時のものであり、現在と異なる場合があります。
サン・ピエトロ大聖堂の歴史
現在の姿になるプロジェクトは1500年代に始まるが、ここの歴史の始まりはもっと遡ることになる。
皇帝ネロの時代に使徒ペテロはキリスト教迫害の中、紀元64年ごろローマで殉教し、現在のサン・ピエトロ大聖堂のある辺りに葬られたといわれている。
皇帝はこの地に競技場を造っている。
その後、帝政ローマ時代の4世紀のはじめには皇帝コンスタンティヌスによって、なんらかの形の上屋が建てられていたという。キリスト教がローマ帝国内において公認された頃である。
そのバジリカ式の平面が今日の聖堂の原形になっている。
その後、ローマ帝国は東西に分裂し、ローマがあった西側が滅び、力を失っていた中世のローマではあったが、
8世紀にはイングランドのウェセックスのイネ王、カール大帝もここを訪れている。
その後の中世のローマはノルマン、ゴート族のなどの侵攻とペストにより、街の力は衰える一途を辿る。
15世紀になって、構造的に危ないとされたサン・ピエトロ大聖堂は教皇ニコラウス5世が改築の提案をし、
1503年に教皇ユリウス2世がブラマンテを主任建築家に任命し、1506年に工事が始まる。
その後、ラッファエッロ、アントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ジョーヴァネ、ミケランジェロが主任監督指揮者に命じられたが、混迷を極める工事であった。
ミケランジェロの死後、ベルニーニが指揮を執り、教皇ウルバヌス8世の時代の1626年にようやく献堂を迎える。
続く