パラッツォ・デッラ・サピエンツァ複合建築 旧サピエンツァ大学

ナヴォナ広場から通りをはさんだところに、ローマ大学サピエンツァのはじまりの建物があります。壁のように囲われた建物は、ここに大学を設立した教皇ボニファティウス8世の後、歴代の教皇によってその姿を少しずつ変えてきました。フランチェスコ・ボッロミーニによって建てられた聖イーヴォ教会が完成した姿が最後の計画になります。大学設立の1303年から300年の年月を経て姿を変えてきました。今ここを訪れるのはボッロミーニの美しい尖塔をもった教会を見に行くためではないでしょうか。

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現在のアプローチこそナヴォナ広場を囲むリナシメント通りですが、カッフェでおなじみのサン・エウスタキオ広場に接してパラッツォ・デッラ・サピエンツァは建っています。
1303年 教皇ボニファティウス8世によりローマサピエンツァ大学設立
1497年 教皇アレクサンドル6世により、パラッツォの建設か促進されました。カテネ通り(現在のセディアーリ通り)を見下ろす2階建てのファサードで、ポルティコによって北に開かれたものでした。

1565年、教皇ピウス4世の時代にはピッロ・リゴーリオに建築の拡張を依頼し、古代ながらの理想的なギムナシウムの再建を計画し、2階建ての柱廊玄関で囲まれた二重のエクセドラのある中央の中庭、ドーム屋根を頂いた教会が隣接する、4棟の複合施設となりました。現在の配置に近づいたのかもしれません。
教会は聖レオ大教皇と殉教者フォルトゥナトゥスに捧げられた大学礼拝堂で、その姿はロムルス神殿に触発された丸い構造を持っていました。
1579年、ジャコモ・デッラ・ポルタの指揮の下で作業が再開され、リゴーリオのデザインに変更が加えられます。廊下が大学の教会に直接通じているように、古めかしいエクセドラは取り壊されます。

教皇ウルバヌス8世の時代には、いったん壊されたリゴーリオの計画に習ってパラッツォのさらなる改修が進められ、1632年にフランチェスコ・ボッロミーニをサピエンツァ複合施設の建築家に任命します。中庭に面したロッジアにはウルバヌス8世の出身家のバルベリーニ家の紋章の蜂が見られます。
ボッロミーニは建物を完成させ、聖イーヴォの大学教会を建設し、1659年から60年にかけて、教皇アレクサンドル7世の依頼により、アレクサンドリア図書館を建てます。 アレクサンドリア図書館とは紀元前47年に火災で焼失したエジプトのアレクサンドリア図書館の暗示です。
教皇レオ10世によって設立され、1565年にリゴーリオによって設計された教会はボッロミーニの教会建築の歴史の中で折衷様式の唯一無二の教会に置き換わります。

1649年、教皇ウルバヌス8世の死による一時中断した後、教皇イノケンティウス10世は建設現場を再開します。
記念碑的な鳩がランターンの空に掲げられ、らせん形の上には教皇イノケンティウス10世の出自の家系であるパンフィーリ家の王冠、地球儀、十字架、鳩によって形成された装飾が上にあります。イノケンティウス10世の下で完成した教会の形状は、現在の建築とは大きく異なります。後の教皇アレクサンドル7世が手を加えていくことになります。
教皇アレクサンドル7世の要請により、教会内の祭壇はひとつとなり、漆喰の装飾は教皇アレクサンドル7世の出身家、キージ家の紋章のシンボルが強調されました。アレクサンドル7世は劇場の効果を望み、教会は中庭の側面に接続され、凹面のファサードの上にはキージ家の紋章の丘がそびえています。

このように歴代の教皇の思惑と贔屓の芸術家の手により姿を変えてきました。堅牢な閉じた外観のパラッツォ・デッラ・サピエンツァですが、ボッロミーニによるサンティーヴォ教会の白いらせん状の尖塔がローマの青い空に見えたとき、思わずふと足をとめてしまいます。

パラッツォ・デッラ・サピエンツァに関係する教皇と建築家

教皇出身家建築家
ボニファティウス8世カエターニ家
アレクサンドル6世ボルジア家
レオ10世メディチ家
ピウス4世名字のみメディチピッロ・リゴーリオ
グレゴリウス13世ボンコンパーニ家ジャコモ・デッラ・ポルタ
ウルバヌス8世バルベリーニ家ピッロ・リゴーリオ
フランチェスコ・ボッロミーニ
イノケンティウス10世パンフィーリ家フランチェスコ・ボッロミーニ
アレクサンドル7世  キージ家フランチェスコ・ボッロミーニ

紋章を見ると出身家がわかり、どの教皇が関わったかがわかるので謎解きのようでおもしろいです。

パラッツォ・デッラ・サピエンツァ
Palazzo della Sapienza

Corso del Rinascimento, 40, 00186 Roma

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パラッツォ・デッラ・サピエンツァ