錬金術の扉 魔法の扉

ローマでは珍しい錬金術にまつわる遺跡がテルミニ駅から遠くないところにあります。
ヴィットリオ・エマヌエーレ2世広場にあります。トッレ・アルジェンティーナと同じくらいたくさんの猫がいる緑の多い公園のような広場です。

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メトロA線のテルミニ駅の隣、ヴィットリオ・エマヌーレ駅がある界隈はポルティコが続く荘厳な建物が並ぶ界隈です。
長いこと移民の多いエリアなので、あまりイタリア感を感じたことのないエリアです。
朝に並ぶ市もイタリアでありながらどこか異国の雰囲気が漂っています。近年では異国の雰囲気が強いため、市場もメルカートではなくアラビア語でスーク、皮肉を込めて表現されているようです。

そのような界隈にある緑の広場、ヴィットリオ・エマヌエーレ2世広場には奇妙にも見える遺跡があります。
遺跡というより人工遺物、この不思議な遺跡があったヴィッラ・パロンバーラの持ち主の趣向によるものです。
錬金術の扉ともいわれ、広くは魔法の扉として知られている遺跡です。
記号が彫られた扉の枠の両側には奇怪な姿の人のようなものが立っています。
これはエジプトで一時期流行ったベス神であることがわかっています。この二体の像はクイリナーレから発見され、ルネッサンスの芸術品や骨董品のコレクターの家があり、そこにあったものとされています。
ヴィッラ・パロンバーラが取り壊された後、1888年に聖エウゼービオ教会の外壁の一部に埋め込まれました。同時に2体のベス像が配置されました。
その外壁の一部はは現在の位置に配置されることになりました。後に幾度と破壊されるという目に遭いますが、1994年の公園の手直しにあわせて、扉やベス像も修復されました。

ベス神いろいろ、バッラッコ古代彫刻美術館より

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ヴィッラ・パロンバーラとパロンバーラ侯爵

この風変わりな魔法の扉は、1614年から1680年の間に住んでいたマッシミリアーノ・パロンバーラ侯爵によって作られました。ピエトラフォルテの侯爵であり、秘教的な科学の深い愛好家であり、錬金術の興味を共有できるスウェーデンのクリスティーナ女王のサロンに通うという人物でした。
そこに刻まれた碑文とモットーは、薔薇十字会の秘教的な運動に同意した証を残したパロンバーラ自身の作品です。
クリスティーナ女王は、スウェーデンの女王ながらローマで一生を終えてサン・ピエトロ大聖堂の地下に眠っています。自身も住まいであったリアーリオ宮殿、現在のコロンナ宮殿に実験室を構えていたとされています。

ヴィッラ自体はマッシミリアーノ・パロンバーラ侯爵の父親、オッドーネ・パロンバーラが主に息子のために1600年代に建てました。秘教的な科学に興味があるマッシミリアーノはヴィッラに実験室を作っています。マッシミリアーノ・パロンバーラ伯爵はこのヴィッラに1614年から1680年の間住んでいました。その後1800年代に入ってマッシモ家のカルロ王に買われることになります。その後建物はローマのイタリア王国への併合後のこのエリアの都市計画により1882年から1887年の間に周辺のヴィッラの土地の接収と共に取り壊されます。
1806年発行の書物に、歴史学者、考古学者であるフランチェスコ・カンチェッリエーリが碑文の文字を残しています。

マッシモ・パロンバーラ侯爵のまわりには秘教的な科学に埋没したいろいろな人物がでてきます。ローマにまつわるその辺りをいつかもう少しまとめることができたらと思います。

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イタリア統一後に首都となったローマ

イタリア統一に遅れること10年、イタリア王国に併合されたローマですが、トリノ、フィレンツェと首都が遷移したあと、ローマが首都となりました。ヨーロッパの一国の首都ということで、ローマではあらたな都市計画が施行されます。
このエスクイリーノ界隈も例外ではなく、ルネッサンス時代のヴィッラなどが取り壊され、道、広場も計画されました。この計画の工事により、この界隈が古代ローマ時代のHorti Lamianiであることが判明し、貴重な彫刻がいろいろ発掘されました。
その中で最も有名なローマ国立博物館マッシモ宮殿の円盤投げ DISCOVOLOでしょう。

円盤投げ DISCOVOLO
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魔法の扉
Porta Magica

ヴィットリオ・エマヌエーレ2世広場内

メトロA線 ヴィットリオ・エマヌエーレ(Vittorio Emanuele)駅から歩いて1分

P.za Vittorio Emanuele II, 1, 00185 Roma

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魔法の扉