ブラスキ宮殿はローマのルネッサンスの中心であるナヴォナ広場とヴィットリオ・エマヌエーレⅡ世通りの間に建っています。
1775年に教皇に選出されたピウス6世の甥であるルイージ・ブラスキ・オネスティの住まいとしてイーモラの建築家コジモ・モレッリに依頼されました。
この建物はかつて1400年代のローマ総督フランチェスコ・オルシーニの宮殿が建っていたところです。
このオルシーニ宮殿の工事の再に数々の像が見つかり、その一つがパラッツォの一角に置かれました。
「語る像」「物言う像」としてパスクイーノの名前で今日までローマの市民に親しまれてきました。
1500年代にはオリヴィエロ・カラファ枢機卿、その後にはアントニオ・チョッキ・デルモンテが住み、
ナヴォナ広場とクッカーニャ通りにはさまれた角にはアントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ジョーヴァネによる塔が飾られました。
1600年代の終わりにはオルシーニ家の所有に戻り、1790年、ブラスキ家に売却されました。
1791年にオルシーニ宮殿は取壊され、翌年にはコジモ・モレッリ設計の新しい建物の工事が始まりました。
1798年にはフランス軍の占領によって工事は中断し、その間、ピウス6世が亡命先で死去しましたが、
1802年には工事が再開されました。
1804年にはジュゼッペ・ヴラディエールによると思われる象徴的な大階段と
おそらく1階の礼拝堂が完成されていました。
ルイージ・ブラスキの経済的な理由により、宮殿の完成とはならなかったものの、1816年の彼の死の際には、
未完成であったのはほんの一部であったといいます。
相続人により、1871年にイタリア政府に売却され、建物は内務省のオフィスとなり、つづいてファシスト政権下におかれました。
第二次大戦後は1949年まで300世帯にもなる避難民がここで生活していました。
戦火によりフレスコ画やモザイクは大きな損傷を受け、時代のさなか、多くのものが破壊され、盗まれました。
1952年からはローマ博物館となり、ようやく1990年に国からローマ市の所有となりました。
1987年には施設として機能の存続が不能となり、いったん閉館し、再構築と修復により、
2002年に一部を再オープンすることができ、2010年の全館リニューアルオープンを迎えようとしています。
宮殿より親しまれている話す像、パスクイーノ
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