ティヴォリへ続くティブルティーナ街道の始まる門がポルタ・ティブルティーナ、ティブルティーナ門です。現在のテルミニ駅の東プラットホームの遠い方の先端辺りに位置します。目抜き通りのティブルティーナ通りから枝分かれした、古のティブルティーナ・アンティーカ通りがこの門に行き当たっています。マッジョーレ門やサン・ジョヴァンニ門は今日の道路がその門をくぐり、交通も激しいですが、この門は遺跡としての役割だけで柵に囲まれていてひっそりと残っている感じです。門自体は時が止まったままですが、門に続く壁は古い時代からの住まいなので、門の脇には生活感のある窓やバルコニーがあります。
この門は幾度か大きく姿が変えられていきます。そして、通れない門、ふたつの建築物から成る門、門の横は住宅と他の門と比べて特徴があります。
門は最初からティブティーナ門としてつくられていたわけではありません。この辺りは3本の水道橋のローマへの入り口でした。アウグストゥスはこのマルキア水道、テプラ水道、ユリウス水道をティブルティーナ街道を通す事業を讃える記念碑としてのアーチにすぎませんでした。それはアウレリアヌスの壁の内側のアーチがその時代の物です。現代の道路からは下にありまありますが、それがその時代の高さです。
アウレリアヌス帝の時代になると防御のためにアウレリアヌスの壁の建設が始まりますが、街の防衛が急務であり、突貫工事であったため、アウグストゥスの門やその周囲の建物を利用する形でこの辺りの壁がつくられていきます。この時、門をはさむふたつの塔がつくられます。これが250年から275年ことです。
5世紀初めのホノリウス帝時代になると、壁の補強工事とともに、ティブルティーナ門の壁の外側の門が作られます。門のアーチの上にある小さな窓は、門の開閉をする管制室の明かり取り窓の役割を果たしています。こうしてティブルティーナ門は壁の内側と外側では時代も表情も異なるふたつの建造物から成る門となりました。
ローマ帝国が滅び、教皇領となった中世にはキリスト教としての呼び名で、ティブルティーナ街道が近くのサン・ロレンツォ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂に続くことからサン・ロレンツォ門としても呼ばれるようになります。
その後、門の脇の塔は修復され今日の姿まで変えられていきます。修復に関わった主なカラファ枢機卿とファルネーゼ枢機卿の紋章が塔に埋め込まれているのがわかります。
時代が進んで教皇シクトゥス5世の時代になると、ユリア水道を利用したフェリクス水道が引かれ、そのローマの街の入り口がポルタ・ティブルティーナとアウレリアヌスの壁を利用して、この門よりやや北の方につくられます。
1900年代に入ると、ポルタ・ティブルティーナの通行は遮られ、今日では遺跡としての役割だけになりました。アウグストゥスの凱旋門の発掘もあり、アウグストゥスのアーチの下まで発掘され、現在の道路面より下の部分がむき出しになっていて、柵に囲まれたエリアとなっていまいました。


