北方民族の侵攻とペストに侵され、さらには教皇庁も失った中世のローマですが、
1377年に教皇庁がアヴィニヨンからローマに戻ります。その後、ピサに一時期遷るものの、
1447年には教皇ニコラウス5世のもと、ローマは教皇統治の街となります。
それは、1871年のイタリア統一まで続きます。

ローマのルネッサンス期の教皇たちは、その時代の偉大な芸術家がその肖像画を残しているように、
ユリウス2世、レオ2世など芸術のよき庇護者でした。

サン・ピエトロ大聖堂が、構造的な問題が理由で改修が始まります。
ここから一気にルネッサンスの華が咲きます。
ルネッサンス期にこのおおがかりなプロジェクトの指揮、建築家ブラマンテ。
ブラマンテはサン・ピエトロ大聖堂を手がける前にジャニコロの丘の上に美しい小寺院、テンピエットを建てています。
小さい中に均整の取れたエレメントがすべて詰まっている建物です。

サン・ピエトロ大聖堂のために制作されたミケランジェロの彫刻、「ピエタ」はミケランジェロのローマでの最初の作品です。
大聖堂の入口近くにあるこの彫刻は、今日も常にたくさんの人だかりをつくっています。
ローマを訪れたら見逃すことのできない作品のひとつです。

このヴァチカン界隈以外には、カンポ・ディ・フィオーリに近い、今はフランス大使館となっているファルネーゼ宮殿、
今は内務省及び絵画館になっているスパーダ宮殿などがルネッサンス期の建築です。
この時期、このエリアとヴァチカンのアクセスをよくしたVia della Giulia(ジュリア通り)が計画されています。
Giuliaは教皇ユリウス2世のユリウスというイタリア語名に由来します。
また、ここからテヴェレ川のちょうど反対側のファルネジーナ荘も、建築、中のラッファエッロのフレスコ画と共に
ルネッサンスを代表するものです。

ヴァチカンでは教皇の住まいであった現在のヴァチカン美術館のシスティーナ礼拝堂や宮殿の間が、
ミケランジェロやラッファエッロ、フィレンツェでもその才能を咲かせた芸術家たちによって飾られました。

1527年にはルネッサンスの芸術で満たされたローマをカルロス5世が襲いかかります。
「ローマの略奪」といわれる事件です。
当時の教皇クレメンス7世は、パセットと呼ばれているヴァチカンとサンタンジェロ城をつなぐ回廊を通り避難しました。

混迷を極めたサン・ピエトロ大聖堂の改築工事はミケランジェロが主任建築家になりますが、まだまだ終わりが見えてきません。

中世で廃墟と化していたローマの街はこのルネッサンス期に一気に花開きましたが、
一方でローマの掠奪による不安定さが市民に心の拠り所を求めさせます。


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